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立花エレテック挑戦の軌跡
100年の歴史の中で会社の成長の転機となった出来事を振り返ります。
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次の100年をめざして
立花エレテック挑戦の軌跡
立花エレテックは、創業100周年を迎えました。1921年、電気関係製品の卸売業と電気工事業を目的として創業、後に技術サービスを付加するビジネスを志向し、業界に先駆けて技術支援重視の事業スタイルを確立。「技術商社」という新しい商社像を打ち立てました。
価値ある製品を届けるとともに「信頼と技術」で顧客企業の要望に応えていくという信念を持ち続け、この100年、社会の変化に対応するため様々な挑戦を続けてきました。
その中でも、会社の成長の転機となった出来事を振り返ります。
01
立花商会の誕生
01
立花商会の誕生
大正10年、個人商店として創業
当社は大正10年(1921)年9月1日、大阪電灯(現・関西電力)の社員であった立花訓光が個人商店として、大阪市北区の大江ビルで創業した。
当時、日本経済は不況の真っただ中にあった。第一次世界大戦(大正3年~7年)によって空前の好況に沸いた日本経済は、軍需や中国市場への進出によって牽引され、特に紡績、化学、海運、造船、電力などの産業が急速に発展した。しかし大正9年には早くも株価や生糸市場が暴落して、反動恐慌が到来したのである。この年(1921)には、後に当社の発展に強い影響力を持つことになる三菱電機も創業されている。不況の世相の中にあって、電気事業は最も将来性が期待される分野であった。
当社は創業と同時に大阪電灯時代から関係の深かった東京電気、大阪電球の代理店となりランプや配線器具の販売と電気工事を主な事業内容とした。
大正14年になると、それまで特注品のみの生産を行っていた三菱電機が汎用品の製造を開始することになり、そのための新たな販売ルートとして関西では当社が特約店(当時は元扱店)となった。当社が三菱電機の製品を扱うようになったのはこの時からである。
02
家電事業を分離
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家電事業を分離・譲渡
大きな事業上の転換、全売上げの1/3が消滅
創業50周年を迎えた昭和46(1971)年、当社は大きな事業上の転換期を迎えた。それは、家電部門の営業権譲渡である。当時の家庭電器品の売上高は約61億円、総売上高の35%に達していた。当社にとって極めて重大な決意を必要とした出来事である。 昭和30年代後半に需要が低下した家電業界は、昭和42年頃からカラーテレビやルームエアコンの好調な売れ行きに牽引され、再び活況を取り戻した。加えて、冷蔵庫や洗濯機の買い替え需要も増大し、「第二次家電ブーム」が到来したのである。この市場の活況を背景に、家電業界は流通組織の再編成や販売店の系列化に努めるようになった。その流れは、営業所・代理店の整理統合、メーカー主導型の地域販売会社の設立となり、伝統的な代理店制度を維持していた三菱電機も強力な販売組織の確立を目指して流通機構の改革を断行したのである。これにより、三菱電機の家庭電器品・標準電機品を販売していた代理店は、家電部門を分離することになったのである。 当社においては、昭和45年、神戸営業所の家電部門の営業権を兵庫三菱電機家電販売へ、続く46年には、本社家電部門の営業権を東大阪/阪南三菱電機商品販売に全面的に譲渡した。 当社の経営基盤である家電部門の分離・譲渡は、当社の経営のありかたに多大の影響を与えるとともに待ったなしの変革を迫られることになったのである。
03
技術商社へ変貌
03
技術商社へ変貌
1970年代半ば、業界に先駆けて技術支援重視の事業スタイルを確立。
1967年3代目社長が日本生産性本部の一員としてアメリカ視察を行った際、当時の日本とは比べものにならない先進のコンピューター技術を目の当たりにし、これは近い将来日本にも情報機器やエレクトロニクスの新しい時代が来るだろうと考えはじめた。 その後、1971年に家電事業が独立したのを機に、単なる機器販売にとどまらず、半導体をはじめとした電子部品および電子機器の取扱いを開始すると同時に他の企業に先駆け“技術商社”を標榜し、技術サービスをも付加したビジネスに着手した。以来、仕入先メーカーとの共同開発を積極的に推進するとともに、販売先である顧客企業へのアプリケーションエンジニアリングサービスを強化し、高度化・多様化するニーズに応える技術商社として発展してきた。 「技術商社」というのは、単なる標語ではない。立花エレテックが生み出したビジネスモデルであると考えている。商社でありながら、多くの技術者を抱えている。現在では、200余名の技術者を抱え、特に、FA関連では、電気機器やPLC、インバーター、サーボなどのFA機器を総合的に用いて、食品、半導体、液晶製造装置などの生産ラインの自動化・合理化システムを設計・構築。半導体デバイス関連では、半導体と電子デバイスの供給から家電製品などのマイコンやASICまた周辺LSIの設計開発を展開している。
04
携帯電話ビジネス
への参入
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携帯電話ビジネスへの参入
現代人のライフスタイルを劇的に変えたケータイの歴史に足跡を残した。
立花エレテックとしては異色で急拡大したビジネス。それは、1997年から10年間手掛けた携帯電話の受託生産だ。三洋電機から携帯電話の回路基板の開発を請け負ったのが発展し、ミヨシ電子(兵庫県川西市)の生産協力を得て、年間16万台でスタートした。その5年後には、大井電気(横浜市)の協力を得て、PHS基地局の受託生産事業へと発展した。携帯電話普及の時代の波に乗り、成長はすさまじく、2003年度には約600憶円の売上げを記録した。累計生産台数は1104万台、PHS基地局は13万台に達したのだが、三洋電機の携帯電話事業の撤退とともに終焉を迎えた。 しかし、このことが商社の枠を超え、部品調達、組立、検査から品質管理、納期管理、デリバリーなどメーカー機能を有することになった。そして、立花エレテックがメーカーとしても活躍できるきっかけになり、現在のMS(マニュファクチャリングサービス)事業にもつながっている。
05
立花エレテックへ
社名変更
05
立花エレテックへ社名変更
「商会」から「エレテック」へ 技術商社をイメージする新たな社名。
「商会」では、何を売っているのか、わからない。新しい時代を切り拓くには、違う名前でないとだめだと、以前から多くの社員が思っていた。 2001年9月、創業80周年を迎えると同時に、「立花エレテック」へと社名変更した。創業からの事業である電気を表すエレクトリックと、電子を表すエレクトロニクスに共通する「エレ」、そしてテクノロジーの「テック」を合わせた名前である。1970年代から「電機・電子の技術商社」を掲げていただけに、名目一致する社名になった。 もっとも、2001年当時、80年もの間慣れ親しんだ旧社名、「立花商会」は、業界で知名度があり、変えてしまうことには、抵抗感もあり、相当な勇気が必要だった。 立花エレテックとなっても、取引先からはいまでも、「立花さん」と呼ばれ変わっていない。技術商社によりふさわしくなっただけのことである。 社名変更に合わせて、大阪(阪神高速空港線塚本)と東京(新橋)、名古屋(名駅南)そしてのちに堺(南大阪ビル)に広告塔を立てた。車や新幹線から見える場所に、というねらいがあたり一般の人にも知られるようになってきた。
06
東証上場
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東証一部上場
当時の立花エレテックには、東証一部はハードルが高かった。
2005年3月1日、立花エレテックは東証・大証一部市場の仲間入りを果たす。1986年に大証新二部にデビューしてから20年目のことだった。 一部上場は、最初から目標としていたわけではなかった。公開企業のとして足かせもあり、果敢な経営判断ができないことがある。だが、上場企業であることは、知名度アップにつながり信用力もアップする。 一部上場は、当時の立花エレテックには、売上高、利益……色々な面でハードルが高かった。当時、一部上場に必要な実力値は低かった。その大きなギャップを埋めるのは、大きな冒険、いや無謀な挑戦だったかもしれない。 折しも、手掛けていた携帯電話の受託生産ビジネスが急拡大を始め、東証上場の条件となる売り上げ拡大というハードルは早々にクリアする。時代が追い風をくれただけではない。強固な財務基盤をつくる努力も怠らなかった。東証・大証一部を目指すことを決めたのは2000年6月、4年で東証の仲間入りを果たし、翌年には一部上場を達成したのだった。
07
海外展開の加速
07
海外展開の加速
同業他社に先駆け、1970年にはじまった海外への挑戦
海外ビジネスがスタートしたのは、貿易課ができた1970年1月。アメリカのコロンバス・マッキンノン社からスリングチェーンを輸入することからはじまった。その後、先進国からの輸入だけでなく、東南アジアへの輸出に発展した。折しも当社の取引先である家電メーカー等が円高を理由に海外生産を拡充する動きを一段と強めていた時期で、当社もそれに呼応して海外の事業拡充に取り組んだ。1982年にシンガポールにジョイントベンチャーを立ち上げ、続いて香港、台湾と次々に東南アジア市場へ進出。2002年には上海、2007年にはタイ・バンコク、そして海外子会社を統括する社内カンパニーとして「立花オーバーシーズホールディング社」を香港に設置。日本からの進出企業向けに販売する、日本企業向けに現地から輸入する――という段階から、現地企業との取引を拡大し、海外において「現地の企業」としての業績拡大を目指すようになってきた。 さらに、中国市場を中心に海外進出が加速することになる。2011年、FAシステム事業の本格的な海外展開がはじまったのだ。中国・武漢に、産業メカトロニクス製品のショールームを併設する営業所を開設した。さらに、中国・大連、タイ・バンコク及びインドネシアにおいて、FAの営業拠点を開設。海外展開は半導体デバイス事業で先行したが、いよいよ得意とするFAシステム事業でも本格展開がはじまった。
08
人間道場開設
08
「人間道場」開設
商社は、人が命。その信念が「人間道場」の開設を決めた。
2008年春に開設して以来、多くのメディアに取り上げられた立花名物の「人間道場」。大阪堺市の宿泊研修施設、立志館の中にある畳敷き24畳の和室である。 「人間道場」とはいささか仰々しい名前であるが、当社の社員が職場や地域社会で生き生きと活躍できる人間力を身に付けて欲しいという思いを込めて命名した。そこでは社員である前に人としての幅を膨らませる貴重な場として、社員OBや地域の方を“人生の先輩”として講師に招き、様々な経験談などの講演や対話をするとともに、研修後は懇談会スタイルで先輩、後輩、また普段接点のない他部署の社員同士の意見交換など交流を活発化している。 当社では、未来を見つめた教育戦略のもと、商品・技術知識などを強化する研修と「人間道場」を組み合わせることで、立花エレテックの創業DNA(顧客志向、収益力のある体質)を継承し、一人ひとりの営業力・開発力、そして人間力を深めてもらい、次世代を担う人材に育って欲しいと考えている。 人間道場ができて、13年。当初、予想していた以上(年間100日近く)に利用され、着実に自ら考え行動する社員が増えたと誰もが感じている。
09
CAPUP1500
スタート
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体質強化プロジェクト「C.A.P.UP 1500」
ねらいは体質強化、生まれ変わる「チーム・立花」
「商社の価値」は「売る力」の高い会社。現在のような激動の時代で生きていくためには、この売る力をつけることが必要だ。商談を掘り起こし、見つけた商談を必ずものにする。 そのためには個々の営業能力UPは不可欠だが、それに頼るだけでなく、周知を集めて強力なリーダーシップの下で一丸となって挑戦していくことが重要だ。個人型営業から組織型営業の脱却である。 2008年9月、その考えのもと「C.A.P.UP 1500」はスタートした。特に本プロジェクトでは、「マネジメント能力の向上」に注力して取り組んだ。部下の指導・教育・モチベーションを上げる、部下を生かした組織作り、セクショナリズムを排除し組織を生かす、部署部門の目指すビジョンの明確化など仕事のあらゆる面でマネジメント上の課題というものが浮かび上がってきた。この「マネジメント能力」は、言い替えれば「リーダーシップの強さ」とも言えるもので、個々の自身の置かれた立場で問題解決のために何が出来るか、どうしたらよいか、「自責」の中で考え行動することが求められている。 リーマンショックで急速な景気後退が進行した時期にスタートしたわけだが、「従来どおり」の枠組みや営業姿勢から脱却するためのいいタイミングだった。現在でもこの流れは綿々と引き継がれており、マネージャーだけでなくメンバーの意識も変化していった。
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連結経営強化
グループ会社拡大
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連結経営強化 ― グループ会社拡大
商材や販路の相互活用により大きなシナジー効果を創出
激動化する時代に生き残っていくには、閉鎖性を打ち破る、そして双方にメリットがあるならば業界再編・資本業務提携に、ためらう理由はない。 2010年、電子機器用部品販売会社の大電社を株式公開買付(TOB)により完全子会社化した。2006年に資本業務提携して5年目のことだった。業界は、販売ルート統合が進んでいる。代理店を絞る動きがあり、その流れの中で、打診されたことに始まる買収話だった。 続いて、2012年、FA機器や電子部品を販売する高木商会と資本業務提携(2019年には完全子会社化)、同社とは同業関係にあるが、取り扱いメーカーや販売先の重複が少ないことから、両社の商材や販路の相互活用により大きなシナジー効果が得られるものと判断。また同年、当社半導体の大手仕入れ先であるルネサス エレクトロニクスより、事業の一部移管を受け立花デバイスコンポーネント設立。そして2020年、八州電機から株式譲渡を受けた八州電子ソリューションズ(ルネサスエレクトロニクス製品、液晶モジュール、センサ等のデバイスを販売)を社名変更し、立花電子ソリューションズとして子会社化した。今では、この子会社4社は、立花エレテックの連結経営に大きく寄与する存在となった。連結経営強化は時代の流れである。国内市場での持続的な発展のためには、今後もM&Aをする可能性はある。
立花エレテックの歩み
創業から100年の足跡を年表でご紹介します。
立花エレテックの社史
社史「創業100周年、その先へ」を編纂いたしました。